高取正介が私の部屋に入って来たとき、私は、彼と幸田と三人で行をともにした撮影旅行の収穫を仕上げて台紙に貼っているときであった。
「どうだった成績は」
私は高取の顔を見るとすぐ訊ねた。
いつもだったら、隠すようにする私の印画を彼れは追い廻して無理からでも見なければ承知しない、そして、私の印画に対して皮肉な批評をくだす彼れであるが、どうしたことか今夜の彼れは、私の印画を見ようとしないばかりか、火鉢のそばに座ったまま黙然として、なにか深い考えごとに陥っているようだった。
「どうかしたのか、へんに元気がないじゃないか…見てくれ、僕としては会心の出来栄えなんだ…」
私は台紙に貼った四ツ切の印画を目の前につきつけたが、彼れはチラと目をおとしたまま、もの憂想な顔を外向けた。そしてしばらくまた黙っていたが、
「…君は、いつか西洋の有名な探偵小説家が心霊現象を真剣に研究しているという話をしたことがあったな」
高取はこんなことを言った。
「なんだ、だしぬけに」
私は呆気にとられた。
「心霊現象なんて本当にあるんだろうか」
高取は、暫くの無言ののちに、私の顔色をうかがうように言った。
「サア…いちがいに否定も出来なかろうが、信ずることも出来ないネ」
「古い心霊学の本を見ると、いろいろな幽霊写真なぞが出ているが、あんなのは本当なんだろうか」
「大部分はトリックだよ、なかには撮影家が被写体に細密な注意を怠ったために生じた写真もあると僕は思っている。日本にもひと頃透視とか、念写とか幽霊写真だとか云って騒いだこともあったが、大部分トリックであることが証明されたよ。…なぜまた突然にそんなことを言いだしたのだ」
「僕の暗函には不思議なものが住んでいる」
ヘンなことを言った高取は、また黙りこんでしまった。
「君は、僕が狩猟《てっぽう》をやめて写真をやりだした動機をどう思っている」
「それは共に猟に行った明石君が、崕から落ちて死んでから、君はスッカリ狩猟《てっぽう》を止してしまったのじゃないか」
「…亡き友に対する友情から…君もそう信じていたのか。ほんとうに」
「それに違いないじゃないか」
高取は暗い窓に視線を向けてまた黙ってしまった。ここ一年ばかりの間にすっかり健康を害したらしい高取の蒼白い横顔は、かすか痙攣を起しているようだった。
「明石は死んだのではない。僕が殺したのだ」
高取は暗い窓を瞶めたまま言った。
「君は今日はどうかしているよ。帰って暫く寝んだらどうだ」
僕がやさしく言うと、高取は、
「ウン」と無意味な返辞をしたが、
「敏子を僕と、明石が争っていたことは君も知っているね」と、やはり顔を窓に向けたまま言った。
「それは知っていたよ」
「そして、明石が、どんなに卑劣な行為で敏子から僕を離間したかをも君は知っているだろう」
「それは、今となって僕は言いたくない」
実際私は、今も尚高取がそう信じていることが不愉快であった。
「そうか、それはどちらでもいい。しかし僕は堅くそう信じている」
高取は、私が口を開こうとするのを押止めるように頭を振った。
「僕が明石を憎んだのは非常なものだったが、しかし、僕は彼れを殺そうと思うほどつきつめては居なかった。だが、人間というやつは実に誘惑にはもろいもんだ。それに、珠にいけないことは、僕と明石は狩猟《てっぽう》友達だった。
「あの日、僕と明石は鉄砲をかついで青野川の上流に行った。そして、あの剣岩に達したとき、明石はその岩鼻に足をかけて銃を肩にあてた。そのとき明石は身体の中心を失って危うく崕に転落しようとした」
高取は、まるで独語のように言いつづける。
「あの時、明石が転落しようとしなかったら、おそらく僕は、こうして罪を犯しはしなかっただろう…それは恐ろしい誘惑だった」
「しかし…」
しばらく黙ってくらい窓を瞶めていた高取は、詞をつづけた。
「僕が明石を殺したということは、誰一人知っているものはないんだし、僕を疑うものもない。僕が狩猟《てっぽう》をやめて、写真をやりだしたことさえ、人々は厚い友情からだと、却って賞《たた》えてくれた。しかし、人間の心って弱いもんだな、明石が死んでからすでに五年になるんだが、そして、日が経てば経つほど、僕は安心していいわけなんだが、それとは反対に僕の悩みと恐怖は、次第に大きくなってくるのだ。僕は何度も自分に言い聞かせた。『誰もお前を疑って居やしない。お前が−俺が明石を殺したんだ−と自白しても、人は本当にしないよ』と、しかし、それは無駄だった。時が経ては経つほど、僕の恐怖と悔恨の悩みはだんだん漲れあがってくる。どうにもこうにも仕方がない。このさき生きていたところが、この悩みは薄れてゆくどころか、ますます大きくなるばかりだ。
「僕は何度自殺ということを考えたか、しかし僕のような卑怯な人間は、その自殺さえ、なにかの機会と、急激な刺戟がなければ決行し得ない」
「しかし、君が明石を殺した。ということは…」
「イヤ、まってくれ…」
高取は、私の詞を遮って、言いつづけた。
「ところが、近頃、僕にその機会と刺戟を与えることが起ってきたのだ。それは先刻《さっき》君にたずねた幽霊写真のことなんだが。僕の写真に幽霊が写りだしたのは、今度ばかりではない。すでに去年の秋からはじまっている。去年の秋、君と、幸田と僕の三人で高野山に撮影旅行をやったことがあったな。あの旅行の収穫を引き伸したときはじめて僕の引伸し印画に幽霊が現われた。その印画は遂に君に見せずに終ったが、不動坂から女人堂を見上げた構図なんだ。それにうっすりと明石の姿が写っている」
「アハハハハハハハハハ」
私は思わず笑いだした。
「君にも似合わない、それは二重写しじゃないか」
「二重写し?」
高取は、少しも気色を変えずこう言ったが。
「原板にはなんにも写ってやしない」と、呟くように言った。
「それじゃ、君の引伸し操作に誤りがあったのだろう」
「僕もそう思った。それで、も一度引伸して見ると、なんにも出ないのだ。原板に無い映像が印画の上に結ばれるということを君はどう説明する」
「それは…」
「イヤ。僕は君にその説明を求めて議論なぞやるつもりはない。僕は明石の幽霊が印画に姿を現わしたことについて、ヒタ隠しに隠している殺人事件が暴露するという不安より、まず、なぜ、それが印画に現われたかを知りたかった。だからあらゆる方法で研究したが、遂に原因は不明に終った、が、僕には斯う想像することができる。
「僕が特設の暗室をもたず、いつも台所の長四畳を暗室として使っていることを君は知っているだろう。そして僕の引伸機が手製で集光レンズの装置がなく、印画の軟調を好むところから紙障子式の光線分散装置をやっていることも知っているだろう。従って引伸の露出時間が長時間に亘ることはめずらしくない。女人堂の原板は露出の過度でずいぶんかぷっていた。僕は引伸すときこの原板に対して十五分の露出を予定した、そして位置を定めて引伸機内に点燈すると直ぐ時計をもって大便に立った。だから僕の不在中暗室内に人が入りこんで、原板を差し変え、僕が暗室に帰るまでに再びもとの原板に入れ変えて去れば、引伸印画の上に二重に異った画像を結ぷことは容易な仕事だ」
高取は、はじめの悄然たる態度に以合わず、真正面に私に目をむけて尚も語りつづけた。
「要するに、この場合は僕が便所に立ったということが穴だ。それ以来僕はいかに長時間の露出に要する引伸でも絶対に暗室を出ないことにした。果して僕の想像した通り、それ以後、久しく僕の印画に明石の幽霊は現われなかったのだが、今年の春、君と幸田と二人で淡路へ行ったことがあったな。あのとき僕は松帆の浜の海景を一枚撮ったんだが、その海のなかに明石の幽霊が現れた。これも原板にはなにも写ってはいないのだが、引伸して見ると印画の上にありありと明石の幽霊が現われている。勿論引伸し作業中僕は充分な警戒を怠らず、暗室を離れるどころか、所要時間の七分間少しも映像から目を離しはしなかったのだから、他人が原板をすり変えることなぞ絶体にできる筈がない。
「こうなると臭素紙を疑うより外はない。僕の押入の臭素紙の袋からその一枚を抜きとり、明石の像を焼き込み、ひそかにもとの通り袋に納めることは不可能ではない。それから僕は臭素紙の袋は使用の度毎に厳重に封印を施すことにした。
「それ以来しばらくは僕の印画に明石の幽霊は現れなかったが、昨夜だ、こんどの撮影旅行の収穫を現像してみると、その内の一枚、古柳橋の橋の上に明石の幽霊が立っているではないか。最も僕は乾板の箱も臭素紙同様使用毎に厳重に封印を施しているのだから、すり変えるとか、予《あらかじ》め焼込んでかくなぞと云うことは絶対に出来ない。こうなると幽霊写真を信ずるより外に道はない」
語り終わった高取は、また最初の悄然とした姿にかえって、暗い窓に顔をむけた。
「しかし、僕は幽霊写真なぞを信じない。きっと君の操作上に大きなてぬかりがあって、何者かの悪戯だと僕は思う。僕にその幽霊写真を見せたまえ、それを見た上で君の撮影引伸なぞの操作を厳重に再検すれば、必ずその手品の種は明かし得ると僕は思うよ」
私がいたわるように言うと、高取は、
「ありがとう…」
と、呟くように口のなかで言ったが、
「いま言った二枚の幽霊写真と一枚の原板は、僕の机の抽斗に入れてある。が、しかし僕はこの写真を君に見てもらって、奇術の種を暴露して貰いたいとは少しも思わない。僕だってこの奇術のタネをあばき得ないからって、幽霊写真を信ずるものではないのだが、しかし、これによって僕が明石を殺したことを知っている奴があることは、疑う余地のないことだ。こんな卑怯な真似をせず面と向って−貴様が明石を殺したのだ−と言ってくれたら、どんなに気持が晴々することだろう。
「僕が、君に告白し、幽霊写真のことを語ったのも、真実僕は明石を殺した事実に対して恐怖し、後悔はしているが、こんな幽霊写真のトリックにかかって、罪の暴露を恐れているのではないということを君に知ってもらいたかったのだ」
語り終った正介は、右の拳を素早くこめかみに当てた。私が立上って遮る暇もなく、にぶい銃声とともに彼れはそこにうつぶしたまま動かなかった。
私と幸田は、その夜のうちに高取の机の抽斗をあらためて見た。そこには彼れの言った通り、二枚の印画と一枚の原板が納められてあったが、そのどれにも明石の幽霊なぞを見出すことはできなかった。